織田信長の豆知識9選!信長伝説と歴史をたどる

織田信長の豆知識9選!信長伝説と歴史をたどる

信長は、戦国時代最大のヒーローです。誰もが知っている偉人です。

桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、それから勢力を拡大し、美濃を取ってからは、京都への道が開けました。将軍の足利義昭を使った外交政策等で、天下に名を轟かせ、それに反発して起きた信長包囲網の攻撃にも耐えると、天下統一へと近づきました。

明智光秀の裏切りがなければ、きっと天下を統一できたでしょう。新しい物好きで、いろんなことに興味を持ち、当時の文化を振興した文化人でもあります。

そんな信長に関する情報をまとめてみました。人気者だけにいろんな逸話が残っていますよ。

豆知識1.織田信長の年表~信長の人生を追いかけてみる~

尾張国の守護代の一城主、織田信秀の息子として生まれた信長は、その後尾張国を統一し、今川義元を破ってその名を轟かせると、美濃の国を手にして井の口を岐阜と改名する。

その後、足利義昭を押し立てるようにして上洛。
同盟者の徳川家康と共に順調に戦いを続けていたが、周辺の大名に信長包囲網を築かれて、追い詰められる。

そこを乗り越えると、天下統一へと突き進んでいく。その最中に本能寺にて明智光秀に襲われて自害して果てました。

織田信長の簡易年表

年代を大きく分けると、次のようになります。

1534年~ 信長生まれる
うつけ者として、好き勝手に暮らしている。
1551年~ 父信秀が死去、家督を相続する。
尾張統一への戦い(1559年頃まで)
1560年~ 桶狭間の戦いで今川義元を撃つ
徳川家康と同盟を組む(1562年)
美濃攻略を続ける
1567年~ 美濃の国を手に入れる 岐阜と改名
足利義昭を奉じて京都に行く(1568年)
浅井氏に裏切られる(1570年)
姉川の戦い(1570年)
石山本願寺と長々とした争い(1570~80年)
比叡山焼き討ち(1571年)
三方ヶ原の戦い(1572年)
一乗谷城の戦い(1573年)
長篠の戦い(1575年)
1576年~ 安土城を造る(完成は1579年)
本願寺と毛利連合軍との戦いが始まる
安土城完成(1579年)
本願寺と和睦 石山明け渡し(1580年)
1582年~ 本能寺の変で死す 数え49歳

生まれてから、家督を継ぐのに17年、尾張の統一から桶狭間まではその7年後、美濃を手に入れるのはまた7年後、そして美濃から安土城を造る(有力大名になる)までが9年かかる。
こうして見ると、信長は家督を継いでから美濃を手に入れるまでにかなり苦労をしている。14年かかって、ようやく尾張の隣の美濃を手に入れる。

安土城を造る頃からが信長が本当の権力者として振る舞えた時期である。それを見たら、信長の栄光の日々は、たった6年である。しかも安土城が完成してから、たった3年で死ぬ。それまでは、戦いの厳しさに追われる日々を過ごしている。

武田勝頼を破った長篠の戦いは、安土城建設の1年前である。武田軍を破ってほっとしてから安土城を造ったのかな、とも想像できますね。

豆知識2.織田信長は、気に入った家臣なら裏切られても使う

松永久秀は、将軍を殺し、大仏殿を焼いたことで有名だが。信長は何故か久秀を気に入ると部下にした。
その後久秀は裏切ったが、許されて信長の配下に戻った。二度目の裏切りにも久秀を気に入っていた信長は、有名な茶器を譲ることで助命することを考えていた。久秀は自害して死んだ。

宣教師からプレゼントされた黒人は、肌の黒さを珍しがる。弥助と名付けられると、信長の側近として愛された。肌身離さず連れ歩く。弥助は士分まで出世する。弥助は本能寺の変まで信長に付き従った。

一方信長は敵や使えないと思ったものには容赦ない。そんな印象がある。妹を嫁がせたが裏切った近江の浅井(あざい)長政を攻め殺した。比叡山を焼き討ちにした。それを見たら恐い人に感じる。
浅井長政は、その父親の浅井久政、そして越前の朝倉義景と共に頭蓋骨に金粉を塗られて信長の酒の席で晒されてしまっている。部下はそれを見てぞっとしたそうだ。自分はそうなりたくないと。

佐久間信盛は、譜代の家臣で、信長幼少期からずっと信長に従っていた。信長の戦いに欠かせない武将となっていたが。石山本願寺攻めの不手際を攻められると息子と共に追放された。そうした情け容赦ないところがある。

だからこそ、豊臣秀吉は、常に信長のご機嫌を損ねないようにしていた。ハゲネズミと馬鹿にされてもご機嫌取りをする。自分こそが忠臣のように言う。そのおかげで最後までお気に入りのまま自らの地位を守り抜いた。

豆知識3.織田信長はこれまでの戦争の仕方を変えた

徴兵の活用

信長は金で雇った兵を活用した。これまでのように地元に密着した兵ではなく、信長の命令で自由自在に動かすことができる。それにより過去に類のない大軍を動かすと、敵を圧倒してしまう。
これまでいた武将より使える武将を優遇した。どれだけ長く仕えていても、些細なことでクビにしてしまう。優秀な人間が出世すると、より多くの報酬を期待できる。

鉄砲の活用

鉄砲は弓矢よりも射程距離が長く、威力が強い。種子島から鉄砲が入ってからわずかな期間で、国内で大量の鉄砲を製造できるようになる。信長はその資金力で鉄砲を大量に手に入れると、戦争に用いた。
それの成果は確実に出た。長篠の戦いでは、3000丁の鉄砲の使用で武田の騎馬隊を打ち破ると、武田軍の名のある武将を打ち取ることに成功する。それから武田軍は大幅に弱体化すると、二度と脅威にならなくなる。

鉄甲船でリベンジ

石山本願寺(現在の大坂城にあった)を封鎖する作戦で、信長は海上に大砲を積んだ大船を並べて本願寺への補給を断とうとしたが、毛利の水軍の火攻めに破れて封鎖を途切れさせてしまう。
信長は船の表面を鉄板で覆った鉄甲船を造らせると、それにより毛利の火攻めを防ぐと、散々に打ち破った。こうして石山本願寺の海上封鎖が成功すると、本願寺勢力の降伏へと追い込むのである。

豆知識4.楽市楽座などの商業重視の政策(重商政策)

信長は商業を重視して、商人を優遇した。自らの領地で楽市楽座のような自由な商売を行わせたりする。

関所を廃止して、自由に移動できるようにする。これまで特権的に商売をしていた人を無視して、自由に商売ができるようにした。それにより経済を活性化した。
それが、特権を持っていた寺などの反発を食らって敵対するようになる。自分たちの権益を侵す物と見なされた。寺社勢力との対立はそれから始まった。

また海外との貿易も行っていて、南蛮貿易では鉄砲を使うために大量の火薬や硝石を輸入した。
生糸、絹織物、毛皮、香料、砂糖等の贅沢品も輸入していた。西洋人と仲良くしていたのは、そのためである。
それ以外にも、地球儀を貰って眺めていたと言う話がある。

豆知識5.茶の湯など文化を振興して広める

信長は茶の湯を振興し、新たな文化を生み出していく。その時は、今井宗久や千利休を用いることで、茶の湯を一流の文化として認めさせていく。配下の武将と共に楽しんだ。それ以後、茶会が盛んに行われるようになる。
それと共に、焼き物の価値を高める。これまで焼き物は実用的な使用価値しか無かった物が、茶器を愛でるような文化を育て、配下の武将に国に匹敵するとまで言われた名器を生み出していく。

絵画でも狩野永徳に安土城に絵を描かせた。絢爛豪華で、金箔がふんだんに使われていたそうだ。安土城が完成してから、城の見学会が開かれると、百文出せば誰でも見学できるようにした。見学した人は、城の内装の豪華さに感嘆したそう。
その絵は安土城の消失と共に失われている。狩野派の壮大な雰囲気の絵画が広がるのはこの時代である。
狩野永徳の描いた屏風絵は、宣教師を通じて海外にも渡っている。

信長は相撲好きで、相撲大会を開いている。
賞品に釣られて人を集め、それにより力自慢を発掘することができた。人材発掘のための大会でもある。
また相撲の時間が長引くのに腹を立て、丸い土俵を作りそこから出たら負けと言うルールを編み出した。そんな伝説がある。

信長は伝統よりも新しい物が好きだった。西洋から入ってきた服装をしていた。虎の毛皮を身につけ、黒いマントを着けていた。派手な服装を好んでいた。
また、輸入品の金平糖を持ち歩いていた。日本で最初にカステラを食べたと言われている。ビスケットも食べていたようだ。
食としては、京風の薄味の物よりも濃い味付けの物を好んでいた。それで当代一の料理人の料理をまずいと言ったとか。

豆知識6.うつけ者と呼ばれていた若い頃の信長

若い頃は、髪を結わずに茶筅のように結んでいる。その頃からその髪型をする。帯を使わずに荒縄で腰を縛っていた。腰からヒョウタンをぶら下げて、水を入れて持ち歩いていた。ズタ袋に食べ物を入れていて、炒り豆とかを手づかみを食っていた。
行動の奇抜さに周りの人からうつけ者と呼ばれていた。それは敵を欺くための行動のようだ。
周囲の人は弟の信行に後を継がせるように言い出す。信長の素行の酷さに信長に付けられていた平手政秀が自殺した。それくらい目に余る行動を取っていた。
実際には初めて義父の斎藤道三に対面する時に、途中で着替えてちゃんとした格好をしてきちんとした態度で接したとあるように、うつけ者の演技をしていただけのようだ。

豆知識7.岐阜の名の由来と織田信長の関係について

美濃の国を支配していた斎藤道三が、信長の正室の濃姫の実父であるため。義父に因んで付けられたと言う冗談がある。
それは事実ではない。
実際には中国の周王朝の発祥の地が岐山であり、それを真似て岐阜と名付けたようである。ここから天下を取ってやる。それくらいの気持ちで付けた。

豆知識8.織田信長の兄弟と有楽町の名前の由来

信長は11人兄弟であったが、戦いや病気でいずれも若いうちに亡くなってしまい、長生きできたのは織田有楽斎長益だけである。
信長が邪魔になったライバルを倒したと言う説もあるが。そうでも無さそう。使えるなら兄でも使っている。
とはいえ、弟の信勝は権力争いで間違いなく殺している。

文化人として知られた有楽斎は、江戸時代まで生き残り、その住んだ土地が有楽町として名前が残っている。

豆知識9.織田信長に対立する宗教勢力との戦い

信長は、天台宗の総本山の比叡山延暦寺を焼いたり、一向宗の総本山の石山本願寺と激しい戦争をしたことで知られている。宗教勢力を恐れずに戦ったのは、信長が神官の血筋を引いていたからか。

その当時の宗教勢力は、僧兵等を要して武装をしる。並の大名じゃ敵わない勢力を持っていた。信長は自分に刃向かってくるなら、例え寺社であっても戦っている。
真言宗の高野山とも戦いになっている。それで高野聖を多数討ち取っている。高野山との戦争は、本能寺の変が起きるまで続いていた。

織田信長の豆知識についてのまとめ

信長についていろいろ知っているつもりでしたが。調べてみたら意外なことがありました。
高野山とも戦っていたなどは、初めてしりました。ともかく、戦国の英雄だけに、いろいろな資料が出てくるようです。

ただ、信長が本当に偉大に見えてくるのは、最後の数年だけとか。調べてみないと気づきませんでした。

凡才が努力しても信長のようになる訳じゃありません。
しかし、織田信長も最初から偉大な人物だった訳じゃなく、様々な努力があって歴史に名を遺した、と思うと、すこし信長が身近に感じられた、そんな気がしました。