新選組の日が2月27日と3月13日の2つある理由とは?

新選組の日が2月27日と3月13日の2つある理由とは?

「新選組」といえば、幕末のドラマや歴史ゲームで良く聞きますよね。

歴史好きはもちろん、そうでもない方でも、「新選組」という名前や、局長「近藤勇」、鬼の副長「土方歳三」、そして天才剣士「沖田総司」・・・聞いたことがあると思います。

そんな新選組、実は「新選組の日」というのが2月27日と3月13日、二つあるのってご存知ですか?

「この二つの新選組の日ってどう違うの?」
そう疑問に思いますよね?

この二つの違いについて、新選組の生い立ちと一緒に説明していきましょう。

2月27日と3月13日の2つある理由とは?

ネットで、「新選組の日」と検索をすると、大体「2月27日」と「3月13日」の二つが出てきます。

実は、この二つ、新選組の歴史の上では絶対外せないことがあった日なのです。

2月27日は「江戸を出発した日」

ここで、「新選組」発足について簡単に説明してゆきます。

「新選組」の局長、近藤勇は、東京の日野で剣の師範をしていました。

近藤の弟子には、土方歳三、沖田総司をはじめとした若い剣士が集まりましたが、皆武士ではありません。

「いつかはこの剣の腕を幕府や将軍様のために使いたい」
「やがては武士に!」

そんな夢を語り合っていました。

そんな折、14代将軍の徳川家茂が、「上洛する(江戸から京都へ向かう)ので、護衛の為の剣士を募集する」という話が飛び込んできました。

そしてその話には「剣の腕が良ければ武士でなくてもよい」という事から、近藤達は立ち上がりました。

「幕府のためにこの剣の腕を使うチャンス!」

とばかりに名乗り出ました。

他にも名乗り出た人もたくさんいて、総勢200人、「浪士組」を結成し、京都へと向かっていきました。

これが1863年(文久3年)2月27日、一つ目の「新選組の日」です。

3月13日は「京都で壬生浪士組が結成した日」

さて、江戸を出発した「浪士組」。

「これから剣の腕を将軍様のお役に立てるのだ!」

という思いを抱えて京都へ行ったのですが、京都についた途端、紆余曲折あって、役目を果たすこともなく、「浪士組は江戸に帰る」ことになってしまったのです。

ところが、「このまま京都に残ってお役に立ちたい」と決断した浪士たちもいました。

それが、近藤勇、土方歳三達でした。

結果、京都残留を主張した浪士たちは、その時京都の警備をまかされていた会津藩主が預かる、という事になり「壬生浪士組」という名前になり、会津藩主の命令の元、京都警備をすることになりました。

この「壬生浪士組」が、「新選組」の始まりで、この日が3月13日の「新選組の日」なのです。

2月28日と3月13日の違い

どちらも「新選組(が始まった記念)の日」であるには変わりありませんが、
2月28日は「近藤勇たちが江戸から京都へ向けて出発した日」で、
3月13日が、「新選組という組織の元になった組織が発足した日」です。

(かなり簡単に書いています。細かいニュアンスが違うのはご容赦ください)

ちなみに、東京都日野市観光協会が、日本記念日協会に申請・登録しているのは、3月13日になります。

実は教科書ではそれほど載っていない新選組が有名になったきっかけとは?

志に殉じた「新選組」

新選組は、知名度は高いけれど、実は教科書にはあまり詳しく載っていません。

それなのにどうしてここまで、知名度が高いのでしょう?

その一つは、「まっすぐさ」「志の高さ」ではないでしょうか?

現代、私たちは当時の資料でしか新選組を知りませんが、世に出回っている資料を見てみると、新選組は、「若くて、剣の腕の立ち、いつか剣で身を立て、武士になりたいという志をもった人の集まり」といったところでしょうか?

ただし当時は幕末、武士の時代は終わりに近づいていて、世間は討幕だ、攘夷だと騒いていて、彼らは若さゆえか、思いの強さゆえか、時代の流れを見ることが出来なかった・・・もしかしたら、時代の流れを「見て見ぬふりをしていた」のかも知れません・・・夢の為に。

ここで、たぶん頭の良い人だったら、「もうすぐ武士の時代は終わる、ここで武士になりたいという夢を持ち続けるのは無駄なのでは?」といって剣を置き、別の道を模索することもできたかもしれません。

でも、彼らはそれをしなかった。

「忠義を尽くす」と決めた幕府を守るために戦い続けて・・・そして多くの隊士が死んでゆきました。

そんな生き様、あるいは「負け側の美学」とでもいうのでしょうか、そういった思いが、今の私たちの心をつかんで離さないのかもしれませんね。

明治以後は「朝敵」として嫌われものでした

今でこそ、「新選組」に対して好意的な意見も多いですが、実は明治維新直後は「敵のシンボル」と言っても過言ではない扱いを受けていました。

そりゃあ、明治政府にしてみれば、討幕側の実行部隊、新政府側の人をたくさん傷つけた集団ですからね、朝敵扱いですし、当時は新選組の事を嫌っている人も多かったようです。

明治の時代になった後「元新選組隊士」なんて名乗ろうものなら、周囲から白い目で見られた・・そんな時代だったのでしょう。

そんな中、新選組の元隊士や幹部の中では「新選組元隊士」という身分を晩年まで隠しながら生きていた人も珍しくありません。

そんな、生き残った隊士を紹介します

永倉新八

元新選組幹部にして、近藤勇や土方歳三と共に「浪士組」として京都へと向かっていった同志。その剣の腕は沖田総司に匹敵するといわれています。

数々の新選組に関わる騒動、戦の果て、近藤達とは袂を分けた。

維新後は各地を転々とし、新選組に関する記録を残した。

島田魁

永倉新八の紹介で新選組に入隊したといわれている。

池田屋事件から、土方歳三が戦死した函館戦争までを生き抜いた隊士。

戦後は名古屋で謹慎生活を送っていたといわれている。

謹慎が解けたのちは剣術道場を開いたり、京都の警備職についたりしていたとか。

この方も、新選組の記録を後世に残しています。永倉新八の記録同様、島田魁の資料も、今の新選組研究の重要な資料となっています。

斎藤一

永倉新八と同じ、新選組幹部の生き残り。

剣の腕前も高く、土方歳三の信頼も厚く、様々な重要な任部を土方に任されていたと言われています。

戊辰戦争では、会津で新政府軍とたたかい、最後まで抵抗していたが降伏。

戦後は謹慎生活を経て会津へ移住し、戦争で焼け野原になった会津の復興に尽くしたといわれている。

その後、東京で当時の警視庁に就職し、西南戦争にも従軍する。

志半ばで亡くなるのも悲しいですが、周囲が敵視する世の中で生き抜くのも、つらかったのでしょう・・・

一体どんな思いで明治の世を生きていたか・・

新選組の日が2月27日と3月13日の2つある理由のまとめ

いかがでしたか?

「新選組の日」が二つあるのには、結成にまつわる大きなエピソードが、それぞれにあるからです。

この機会に、新選組について、ちょっと紐解いてみるのも面白いかもしれませんね。

教科書には決してのることのないたくさんの面白いエピソードが満載ですよ。