乙巳の変とは何か?テストでも忘れないエピソードで大化の改新との関係性を説明する

乙巳の変とは何か?テストでも忘れないエピソードで大化の改新との関係性を説明する

『大化の改新』といえば、小学校などの歴史の授業で耳にする言葉です。
中臣鎌足と中大兄皇子らが行った改革のことです。

では『乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)』とは?

実は、この改革のために、中臣鎌足らが蘇我氏を倒した事件のことを『乙巳の変』と言います。
この事件のことを『大化の改新』として覚えている方は多いと思いますが、厳密にいうと違うのです。

今回はそんな『乙巳の変』と『大化の改新』について解説していきたいと思います。

乙巳の変で、なぜ蘇我氏は倒さなければならなかったか

大化の改新で暗殺された蘇我入鹿といえば歴史上の悪役として有名です。
(近年ではその在り方も見直されてきていますが、ここでは一般的に認識されていることを基に解説していきます)

蘇我氏が権力者に

蘇我氏が権力者になったのは物部氏との戦いに勝利してからでした。
その後、蘇我馬子が姪である推古天皇を置くことによって確固たる地位を築きました。
またこの時には厩戸皇子(聖徳太子)が摂政に就きます。
こうして推古天皇のもと、蘇我馬子、厩戸皇子の三人四脚の政治が始まりました。

蘇我氏の暴走

しかし、権力を持ったことにより徐々に蘇我氏の暴走が始まります。
それが顕著になったのが蘇我馬子の死後、蘇我蝦夷・入鹿親子の時代でした。
この時には既に厩戸皇子も推古天皇も亡くなり、後には蘇我氏の強い後押しにより、舒明天皇が即位しました。

蘇我蝦夷は息子である蘇我入鹿を勝手に大臣の座に就かせたり、また、自分の大きな墓をつくらせ、それを「陵(みささぎ)」と呼ばせました。
「陵」とは帝や、お妃の墓のみに許される呼称です。

また蘇我入鹿は斑鳩の山背大兄王(厩戸皇子の息子とされる)を襲撃し自害に追い込みました。

この傍若無人な行動から蘇我氏は「臣下のくせに天皇にでもなるつもりか!」と周りの反感を買ってしまいます。

唐の脅威

そしてこの頃、大陸の方では唐という大きな国が出てきました。
周辺の高句麗などに戦を仕掛けていることから朝鮮半島を経ていずれ日本にも戦いが及んでくるのではないのかという不安もあり、一層国内のまとまりが必要となりました。
蘇我親子がいる限り、権力を帝に集中させることはできない。
そこで立ち上がったのが中臣鎌足、中大兄皇子たちでした。

乙巳の変までの中臣鎌足の動き

祭祀を司る中臣氏一族の中臣鎌足は、帝と家臣は別であると聞かされていました。
その考えがあったため、蘇我親子の傲慢な振る舞いに「朝廷を我が物にしようとしているのでは」と危機感を覚えます。

蘇我氏を何としても倒さなければ。
そこで目につけたのが舒明天皇と皇極天皇の子息、中大兄皇子でした。

二人は南淵請安のもとで唐について学び、国内の団結が不可欠と考え、手を取り合います。

そうして蘇我入鹿の暗殺を謀りました。

乙巳の変当日

645年6月12日。
飛鳥板蓋宮大極殿にてそれは行われました。

この日は「三韓の調」が献上される日で、天皇はもちろん、入鹿もこの行事に出席しました。

蘇我倉山田石川麻呂が使者からの書を読み上げているうちに、隙を見て入鹿に切り掛かるというのが暗殺の計画でした。
しかし、入鹿暗殺の実行を任された人物が怖気付いてしまい、動くことができませんでした。
結果として、それを見かねた中大兄皇子が蘇我入鹿二切り掛かり、入鹿を倒します。

この時、瀕死の入鹿が「私に何の罪がございましょうか」という言葉を皇極天皇に向かって言ったと知っている人は多いと思われます。
皇極天皇はこの暗殺計画については知らないため「これは何事か」と慌てます。
中大兄皇子は「蘇我親子がいずれは帝の地位を乗っ取るつもりだ」とことの訳を話しました。

そして、入鹿の訃報を聞いた父親蝦夷も屋敷に火をつけて自害。
これによって蘇我氏本家が滅びました。

大化の改新とは?

乙巳の変後は、皆さまお馴染み『大化の改新』という天皇を中心とする律令国家を目指す働きが見られました。

天皇には中大兄皇子の叔父である軽皇子が即位しました(孝徳天皇)。
中大兄皇子は、「入鹿を暗殺後、すぐに即位すれば悪い噂がたつのでは」という中臣鎌足の助言によって皇太子となります。

そして孝徳天皇のもと、『改新の詔』という新たな政治の方針が発表されました。

その後、654年に孝徳天皇が病死。
次には皇極天皇が再び斉明天皇として即位します。その次にようやく、中大兄皇子が天智天皇として668年に即位しました。

乙巳の変と大化の改新についてのまとめ

かつて栄華を極めた蘇我氏本家は、こうして呆気なく滅んでしまいました。

そんな悪名高い蘇我氏でしたが、政治などの面においては親子共々かなり優秀な働きを見せています。

また、蘇我氏滅亡の決定的な原因になったといえる山背大兄王襲撃については、このことが記述されている日本書紀においてもおかしな点が多く、首謀者が本当に蘇我入鹿だったかということは疑問視されています。
歴史は勝者が作り出すものなので、もしかしたら事実とは異なるのかもしれません。

古代史はそういった謎や、ロマンがあるので、是非楽しんで勉強してください!

参考文献

  • 榎本 秋『徹底図解 飛鳥・奈良』新星出版,2008
  • 『大化の改新と古代国家誕生——乙巳の変・白村江の戦い・壬申の乱』酒井直行編,新人物往来社,2008