葛飾北斎の娘、葛飾応為とはどういう人物か? 作品やその人生を追う

葛飾北斎の娘、葛飾応為とはどういう人物か? 作品やその人生を追う

葛飾応為といえば、メディアにも取り上げられるなど、最近注目を集めている江戸時代の女性画家です。
父は、『富嶽三十六景』などで有名な、あの葛飾北斎。
応為の生涯を覗くと、父・北斎譲りの画才と奇才さが見て取れます。

今回はそんな葛飾応為について解説していきたいと思います。

葛飾応為の基本情報とは

葛飾応為は葛飾北斎の三女として生まれました。
その正確な生没年はわかっていませんが、およそ1800年頃〜1866年頃ではないかといわれています。

本名は栄(えい)といい、「応為」というのは画号です。
その由来は、北斎が栄を「オーイ、オーイ」と呼んだからだとか、逆に栄が北斎を「オーイ、オーイ親父殿」と大津絵節から採って呼んだからだとか、北斎が使っていた号(ペンネーム)の「為一」という号に「為一に応じる」の意味をかけたとか、様々な説があります。

1820年頃に水油屋の息子である南沢等明に嫁ぎます。この方も絵を嗜む人だったのですが、応為が終始彼の絵をバカにした為、離縁されていまいました。
やはりそれだけの画才があったのでしょうね。

独り身となった応為はその後、一人暮らしをしていた父・北斎と同居を始めました。
よって父であり、師でもある北斎の面倒を最後まで見ることになるのですが、同時に、絵の面でさまざまな刺激を受けていきます。

北斎譲りの才能

応為が北斎の肉筆美人画の代作をも手がけたというのは有名です。
晩年、北斎が「美人画では応為にかなわない」と言い、美人画の名手であった渓斎英泉も応為を評価する言葉を残しているので、その実力は相当なものだということが分かります。

応為の作品を見ると分かる通り、彼女の絵は細密描写に優れ、明暗が極端に表現されています。
日本画では、西洋画のように陰影がつけられることは少ないので、西洋画法への関心が強かったことが見てとれます。
その西洋絵画が日本に普及し始めたのも明治に入ってからですから、応為はある意味時代の先取りをしていたのでしょう。
よく取り上げられる『吉原格子先之図』からも分かる通り、一般的な浮世絵の雰囲気と違いますが、大胆な明暗法を用いたことで、立体感のある、幻想的な光景を生み出しました。
北斎も西洋問わず、生涯を通し、さまざまな画法を吸収していきました。なんだかDNAを感じますね。

これも北斎譲り?葛飾応為の変人ぶりとは

夫の絵を馬鹿にしたことで離縁された応為ですが、他にもなかなか変わった行動がみられます。

飯島虚心著『葛飾北斎伝』によれば、仙人になりたくて茯苓(ぶくりょう)を服用していたそうです。
茯苓とはサルノコシカケ科のキノコの核菌で、漢方薬に使われるものです。
他にも、観相や占いなどを好んでいたり、芥子人形を作って売り、巨万の富を得たなど、面白い逸話に富んでいます。

また、かなり男勝りだったようで、タバコやお酒も嗜んでいたり、当時の女性にしてはやや慎みに欠いた方だったそうです。

北斎自身も、引っ越しを93回繰り返したり、改号を30回したりと、結構な変わり者ですが、応為はその変人ぶりも見事に受け継いだのでしょう。

筆一本あれば生きていけると豪語

仙人になりたい。
当時どんな風潮があったかは詳しく知りませんが、少なくとも「仙人になりたい」と言い出す人は、多くはなかったでしょう。
そんな応為でしたが、北斎没後、門人や親類の家を渡り歩いたのち、仙人のごとく姿をくらまします。

以前より「筆一本あれば生きていける」と豪語していたそうですが、その言葉通り、筆を懐に行方不明となってしまいました。

一説には金沢に行ったとか、信州の小布施が臨終の地だとか、さまざまな説が飛び交っていますが真相は不明です。

葛飾北斎の娘、葛飾応為のまとめ

肉筆美人画の名手、葛飾応為。
格好良くもミステリアスなその生き様は、どこか人を惹きつける力があります。
そしてその生涯は、天才浮世絵師の父と同じく、絵に生きたものでした。
そんな応為が人生をかけて描き続けた作品。機会があれば是非実物を見たいですね!

参考文献

  • 『すぐわかる女性画家の魅力』千足伸行監修,東京美術,(2007)
  • 『アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい葛飾北斎 生涯と作品』永井生慈監修, 東京美術,(2008)